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夫、という感じでは、正直ない。「主人です」と誰かに紹介するときの言葉のこの違和感。「この人のところにお嫁に来た」「私はこの人の”奥さん”」という感覚がほんとにない。でも後10年もたてば出てくるのかもしれない。でも私のこれまでの経験から言えば、頼りたくなってしまう人、包み込んでもらいたくなる人、「私はこの人のモノよ!」なんて言いたくなってしまう人と一緒にいると、逆に自分の大切なものがどんどんしぼんで、枯れてしまっていくような気がする。生来、ついていくというタイプではない(かといってついてこさせるタイプでもない)にも関わらず「この人について行きたい」なんて思ってしまうということは、私にとって健全なことではないのだ。そこには相手に対する愛や想いなどとは全く関係のない、自分の人生や自分自身を生きることに対する恐れが現れているに過ぎないから。いや、ほんとよかった〜、お金持ちでカッコよくてビジネスで既に成功してる人と結婚しなくて・・・・・って、ちょっと語弊があるか。

晋理くんと結婚したことは、大正解だったとほんとに思う。

晋理くんが横にいてくれると、どんなことも結構楽しくなる。退屈な時間も、笑ってばかりの楽しい時間に変わる。逆に言えば、晋理くんがいなければ、はっきり言ってつまらない人生になってしまった。果たしてそれはいいことなのかな、と思う。でもまあ、与えられたものをありがたく受け取ろう。

私が何かに対して「なんだ、こんなもの。くだらない。」なんて斜に構えているときに、それを素直に楽しんで喜んでいる晋理くんが横にいる。矛盾しているように聴こえるかも知れないが、それはどこかとてもホッとするものがあるのだ。

晋理くんの思考の中にないもの。それは「比較」だ。比較がないと、全てをありのままにそのまま楽しむことが出来る。不要な卑屈さがなくなる。不要なエネルギーもいらなくなる。不要なほど過剰な自意識もなくなる。私を他の誰かと比べたことなどおそらく一度もないに違いない。自分のことさえ比べないのだから。

私が何かを見て「なんだ、こんなもの。くだらない。」と思っているとき、そこには例外なく「あれに比べれば・・・・」という比較があるのである。比較というものは、たいてい0か100かである。比較というものから全く自由な状態であるか、無意識的な習慣と言えるほど、ほぼ強迫的に、全てにおいて比較するか、である。

私と晋理くんは、全く違うタイプだと思う。一緒に仕事をしていたときも全く役割が違った。人との対応の仕方も違うし、仕事のスタイルも違う。同じものを見ても、発想する根幹が違う。私が興味があることは晋理くんには興味がないというよりは「わからない」ものであり、晋理くんが興味をもつこともまた私にとっては「全くわからない」ものである。

でも晋理くんがいてくれると、楽しい。いっぱい笑える。無理なんてどこにもない。そのままが一番気持ちいい。一番最初から、晋理くんがいつかどこか行ってしまうんじゃないかとか、嫌われるんじゃないかとか、裏切られたらどうしようとか、傷つけられたら嫌だとか、ほんの一度たりとも思ったことはない。もっと自分を良く見せたいなんて思ったことも一度も無い。「ありのままの私」でいることができるとはこのこと。映画を観たり、ミュージカルを観たり、海外旅行へ行ったりすれば、一緒に「これは素晴らしい!!」と共感できる。美しいものを見たときに一緒にその美しさを感じることができ、楽しいことがあったときに一緒にその楽しさを分かち合うことができる。それで十分すぎるほど十分だ。

なるべくしてこうなっている。そう感じれる毎日だ。