エッセイメニューへ戻る

今の私・・・いや、私はここ最近ずっと、チャンスが向こうからドアをたたいて、「遅れてごめんね。やっと着いたよ!」と入ってきてくれているのを待ち続けている感じだ。神様はきっと用意してくれている、私がもっと輝けるための、私が私であるために必要な舞台を、きっともうそろそろ出そうと思っているんだ。そうでなければ、私はこのまま、思いもしなかったほど平凡な、誰にも知られることのない、大成を夢想しながらも結局は何事も成しえなかった一人の人間のままで人生が終わってしまう。そんな言葉が、私の頭の中を絶えず、絶えず駆け巡る。

私には何かができるはずだ、力があるはずだ、才能があるはずだ、人とは少し違う輝きをもっているはずだと思いながら、それを片方で強く疑い続けている。名を上げた多くの人が既に若い20代の頃から(もしくは十代のころから)その基盤を築いていたということを聞くたびに、一日、一日と「手遅れ」になってしまっているんじゃないかという思いが駆け巡る。

私は目の前に止まっていた汽車を何度も見送ってきたのだろうか?本当に自ら動き出さなければ何も起こらないのだろうか?動き出せば何か変わるのだろうか?私は変わるのだろうか?傷つかないのだろうか?私の人生のシナリオはこんなに中途半端なものなのだろうか?待っていれば何かが起こるだろうか?待っていても何も起こらないだろうか?私は果たしてこれでいいのだろうか?神様は認めてくれるだろうか?私は果たして進化しているのだろうか?もしや退化してしまったのではないだろうか?幼い頃のほうが私は優秀な人間だったのではないだろうか?もはや私は愛されず、認められず、ただ勝ち続ける人を指をくわえて密かにうらやむ人間になってしまっているのだろうか?一方でそんなことはないと抵抗し、それを自分に、そして誰かに証明しようと、毎日その証拠を拾い集めて日々暮らしているのだろうか?人からの目の中に、言葉の中に、その証を探している人間なのだろうか?

こんな戯言ばかりをぐるぐると繰り返し続ける。もしかして、こんなことをまさに「ごちゃごちゃと」考え続けているわたしは単に相当ヒマなのかもしれない。いや、実際に私はヒマである。しかし忙しくしてそんなことを考える時間がなくなったところで、それが根本的な解決になっているわけでもない。一時的に誤魔化せているだけだ。それは”パターン”となって、習慣となり、無意識になり、気づかないほどに自然なものになっていく。そしてそれが、私の現実となっていくのだ。

そういったすべての戯言は、漠然とした罪悪感を私の中に残す。漠然とした自分に対する不安を。たとえば歯が痛くなれば、カラダに良くなかろうがどんな副作用があろうが、私達はその痛みを止めるために効く薬を何だって飲むだろう。不快感とは嫌なものだ。とにかく止めたくなるものだ。それとおなじように、何とかそういった不安や罪悪感を一時的にせよ(そして願わくばそのまま永遠に)やわらげてくれるための「何か」を見つけようとする。人の中に、人の目の中に、人からの言葉の中に。もしくは、何かチャンスがやってくることで、まだ私が神様に忘れ去られた存在ではないということを知ろうとしているのだ。神様が、まだリストの中に私を入れてくれている、ということを感じるために。

全ての人々は特別だと言う。全ての人々は神に愛されていると言う。世界は一つだと言う。全てはバラバラな存在などではないと言う。根源は愛だと言う。感謝だという。

どうやってそれを、この体の一つ一つの細胞が納得するくらいに感じることができるというのだ。ただ信じること以外に、どうやってそれを知ればいいのだ。

神はあの人には答えたかもしれないが、私にはまだ一度も話しかけては来ない。確かに私は大変恵まれている。全てにおいて。まず、家族が何よりも素晴らしい。何をおいても素晴らしい。でもそれが単なる偶然ではなく神の意図だとどうやって知ればいいのだろう。「知っている」という人たちを信じること以外に。「それが真実だ」「私には見える」「私にはわかっている」と言う人を信じること以外に。どうやらこの人は真実を知っているらしい、という人たちはいる。その人たちの目に、私はそれを見る。その人たちの寛大な心に、開かれた心に、私はそれを見る。だけどその人たちの言うことを信じたところで所詮は一時的に言葉を理解しているに過ぎない。本を読むのと同じだ。セミナーに行くのと同じだ。

見ずに信じることができる人は幸いだとキリストは言った。しかし。

私は単に勇気のない臆病者ということか。それとも力があっても出すことのない怠け者か。それとも頭が十分良くないのか。考えなさ過ぎるのか、余計なことを考えすぎるのか。それともこんなことを言っている全ての時間が全くの無駄なのか。

とにかく、私が抱いているこのひっかかりを、「これで埋めよう」と捜し求める全ての方向が、違う、そんな気がする。いや、確実に、違う。これでは蜃気楼を追っているようなものだ。はっきりと現実かのように映る。ああ、あそこに今の私に必要なものがあると思う。喜ぶ。しかしそこにあったと思ったところに行っても、そこには砂以外何もない。それでも私はその蜃気楼を探し続け、追いかけ続けている。「これも蜃気楼ではないか」とどこかで知っているのに。なぜ?蜃気楼を追っているほうがまだましなのだ。自分の本当の姿を直視することよりも、ずっとずっと、怖くないことだから。

ありのままの姿を見たときに、私が本当に愛されない人間だったら一体私はどうすればいいのだ。中途半端な人生を生きる中途半端な人間がまさに私だったら一体どうすればいいのだ。まさに私のおそれているものが、怖くて見れなかったことが、全てありのままの真実だったら。私が望んでいるものがそこにはないと、知ることになるくらいなら、箱を開けることをできるだけ避けたくなる。くだらないことだとわかっていても、そのくだらないことで穴を埋めることができ、「そうだ、やっぱり私はそうだよね」と言うことができることにつながるならそれでいいと。

しかしどうだろう。その、「愛されない人間だったら」とか、「中途半端だったら」とか、「ダメだったら」・・・・などということが、そもそも思考の作り出した勝手な基準、勝手な価値判断、つまり単なる幻想だったとしたら。

命に「これは300円」「これは3000億円」と、値段をつけるようなものだとしたら。

つまり、私が取り組むべきことは、「そんな不安なんて必要ないよ。あなたは愛される人間よ。あなたは素晴らしい存在よ・・・」なんて自分を慰めることでも、誰かのところに行って認めてもらい、自分の代わりに自分を判断してもらい、安心させてもらうこともなく、そもそもそこにかぶせているベールそのものをはがすことなのだ。

全てのものには価値がある、つまり点数がある、つまり合格点と不合格点があり、成功と失敗があり、勝ちと負けがあり、高いと低いがあるのだ・・・というベールを。

おびやかされること。それが、私が恐れていることだ。綺麗な鏡に自分を映してありのままの恐ろしい姿に直面するくらいなら、汚れた、所々かけた、曲がった鏡で美しい自分を見ていたい。

それで生きている実感など果たして味わえるものだろうか。

自分の姿さえ「ありのままに」受け入れることを恐れているのに。

直視できないでいるのに。

しかし、その「価値」という観点から自分を見ることから自由に解放されて、絶対的な生命として自らの存在を確固たるものとし、生きている人は非常に少ないようにも思う。

自分の存在を、全く別の視点から、全く別のレベルからまるごと感じて生きたとき、あの「神とあなたは一体であり、あなたは神であり、神はあなたである」ということが実感として全細胞に浸透してくるのだろう。そして、私たち一人一人がとても尊い存在であると同時に、誰一人として分け隔てられてなどいない存在だということがわかるのだろう。鳥達も、草木も、土も、隣に住む人も、空も、星も。

しかしそんなことをあれこれ、ごちゃごちゃと考えて、まわってまわってまわりまくって回り道をするよりも、ストレートにそのままでそれを生きている人はいるに違いない。「ああ、これが神とひとつであるということだ」などと考えることも無く。

しかし私はどうもあれこれ考える性格なのだ。だからそれをどんどんキレイにしていくしかないだろう。