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生まれた瞬間に、人は名前を付けられる。(ほとんどの場合)

そしてその後、その名前はいろんな形で、どんどん、どんどん増えていく。していること、性格、年齢、持っているもの、親や家系、住んでいる場所、国、文化、全てがその人の名前のようなものになってくる。ほかの人は、私たちについている名前を多く知れば知るほど、私たちのことを「知った」気になる。

容姿、好きなもの、こだわっていること、理念、つきあっている仲間、恋人、夫、家族、仕事、乗っている車、住んでいる家、そういったもの全てが、「私の名前」を形作る。

そして私たちがどんな言葉を発し、どういう話し方で、どういう表情で、どんな感情を表現し、どんな姿勢で立っているか、などというありとあらゆる立ち居振る舞いにいたるまで、その「私の名前」は及んでいる。「私の感じ方」「私の考え方」「私の生き方」「私のやりたいこと」「私の情熱」・・・・・・つまるところ、いわゆる「私らしさ」と、私たちが普段呼んでいるようなもの。

しかし、所詮それらは名前に過ぎないのではないか、と思う。

そういったものが、すべて、あなたからひとつずつ、ひとつずつ、消えていったとしたら、どんな気持ちになるだろう。

あなたの育ち。これまでの歴史。あなたの住んでいる家。あなたの親。あなたの乗っている車。あなたの仕事。あなたのこれからの野望。お金を持っていること、持っていないこと。あなたの恋人。あなたが愛を注ぐ相手、もしくは注がない相手。あなたの過去や未来。そして、ほかの人たちにいろんなことを伝えるために努力し続けてきた、あなたの言葉。そして、あなたの全ての容姿。すべてにおけるあなたの選んでいる「あり方」。

そういうものがひとつずつ、あなたから、魔法のように取られていったとしたら。

まるで、「自分」が、もしくは「自分の価値」が、なくなっていくような気がしないだろうか。

けれど、それは本当に「自分がなくなっている」のだろうか?

私たちが「自分」と思っているものは、決して自分ではなく、単なる名前に相当するようなものにすぎないのではないだろうか。

最後に残る、これ以上何一つそこから取ることができないもの、それが私なのではないだろうか。

「あるがままの私」、「本当の私」。こんな使い古された言葉から私たちがイメージするものは、実際にはそういった「私」とはまったく無関係のものかもしれない。

「あるがままの私」、と私たちが聞くときには、「長所も短所もぜんぶひっくるめた、何も隠し立てのないまるごとの私」のようなものをイメージしやすい。

「本当の私」と聞けば、今の自分よりももっと強く、輝きに満ち、完全な自分をイメージするかもしれない。

しかし、それは「私」ではなく、単にまた新たな「私の名前」を探そうとしているだけではないのか。

名前が何もなくなってしまった後に残るものはなんだろう。

ひとつの小さな光、小さな渦巻くエネルギー、変幻自在な流れのようなもの、そんなものを私はイメージする。

 

私たちは名前をつける。すべてに名前をつけて、それを「知っているもの」にしたがる。わけのわからないものほど怖いものはないからだ。見たことのないもの、誰も知らないもの、どんな枠にもはまらないものが怖いからだ。

人の性格を決め付ける。それも名前をつけることだ。いろんな体の症状に名前をつけること。それも安心するためにやることだ。

もし誰もが単なるエネルギーの塊にしか見えなかったら、私たちはどうやって相手を判断すればいいのか。

名前をつける。判断する。全ては私たちが生まれた瞬間から学ぶことだ。

死とは、そういう全ての名前から、私たちを解放する唯一のものなのかもしれない。

そのときまで、自分の全ての名前を愛し、楽しみつくすこともいいと思う。

けれど、それが本当の自分かといえば、そうではない、というだけのことだ。