

今、私は実際どれくらいこの瞬間を味わっているだろうか。どれくらい開かれた心で、どの感覚をどれくらい使い、全てを感じることができているだろうか。そんなことをふと思うことがしばしばある。
たとえば美味しい食事や、家族との楽しいひと時、季節の移り変わりを知らせる風の温度、空の美しさ。または、自分の中に起こってくるお馴染みの嫌な感情、冷たすぎる水、暑すぎる太陽、耐え難いほどの喧騒、思い通りにはいかない全ての人や物事。
自分をいい気分にさせてくれるようなものには、しがみつきたいと思う。いつまでもこの瞬間が続いて欲しい、留めておきたい、少なくとも忘れたくない、後で何度も読み返して味わえるように書き留めておこうか、そんなことを思う。自分を嫌な気分にさせてくれるようなことなら、見たくない、過ぎ去って欲しい、逃げたい、ごまかしたいと思う。どちらも同じく、味わっているとは言えないのではないだろうか。そもそも、どちらも不可能なことではないのだろうか。
子供の頃はもっと全てが鮮烈で、感覚の全てからほとんど否応無しに体の中に入ってきて、心は常に動き、体の全ての細胞はひっきりなしに代謝しているようだった。そして時間はもっとゆっくり流れていた。朝起きて、気がつけば一日が終わっているなんてことはなかった。朝が来て、ゆっくりと昼が来た。そしてもっと時間が経って日が暮れて、家に帰れば母の作っている晩御飯の匂いがして、夜は夜でたくさんのことができた。再び眠りに着くまでには、ずいぶんと長い時間が経っていて、たくさんのことが蓄積されていた。今では、気がつけば一週間がたち、同じ曜日がこんなにも早くまた訪れることに驚くばかりだ。
なぜこんなにも今をありのままに味わうことが困難になってしまったのか。
それは、偏に、心配することに忙しすぎるからではないだろうか、と思う。
「何か心配事はありますか?」と誰かに聞かれたら、今の私は「いいえ。心配することなんて何一つない、楽しい毎日ですよ!」と答えるだろう。親しい友人に聞かれたって「特にはないよ」と答えるに違いない。実際にあるレベルではそうなのだ。しかしもっともっと深いレベルでは、私の心は止まることなくあらゆることを心配している。将来のことを、不十分な自分の力や才能を、失敗を、落胆を、負けることを、失うことを、得られないことを、成し遂げられないことを、全ての思い通りにならないことを。そして、今私が歩んでいる道が、間違った道ではないのか、ということを。私が今選択していることが、間違った選択ではないのか、ということを。常に、どこかで、心配しているのだ。
心配事の無い大人などいない、とあなたは言うだろうか。そうかもしれない。けれど実際には心配することが多ければ多いほど、今を味わっている余裕なんてなくなる。今の瞬間を生きるためのスペースはなくなるのだ。
まだ今起こっていないことがもしかして起こるかもしれない、と思うこと、それが心配するということだ。それにあまり時間を費やしすぎて人生があっという間に終わってしまったとしたら、なんとももったいないことではないか。せっかくこうして生まれてきたのに。せっかくこんなに恵まれているのに。こんなにも素晴らしいもの、美しいものに囲まれているのに。
私が忙しく心配している間にも全てのことは過ぎ去って行く。季節は移り変わり、花は咲いて散り、人が訪れては去っていく。私がいくらノートに書きとめようと、その瞬間を留めることは出来ない。写真を撮っても、その瞬間を留めることは出来ない。どんな思い出の品も、いつかは意味をなくし、いつかは消えてなくなってしまう。
もう、見えないことやまだ起こっていないこと、わからないことに対して心配ばかりする頭を少し休めよう。それだけで、いいのだ。それだけで、また私は、全ての感覚が今感じ取っていることを、全身で感じることができるようになってくるのだ。
子供の頃のように戻ろうとすることなど必要ではない。だってもう子供ではないんだから。ただ野原で走り回って秘密基地を作るのに熱中してればいいようなあの時は、またあの時で、とうの昔に、過ぎ去っているのだ。