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街を歩いていても、一人で部屋にいるときも、ヨガをしていても、誰かと話をしているときでさえも、私の頭の中には私の声がある。「これってこうじゃない?」「きっとこうだからこうなんだ」「この人ってこういう人だなあ」「これは好き」「こういうのは嫌い」「それは正しい」「間違ってる」・・・・。目から耳から、入ってくるあらゆる情報を、ほぼ無意識的に頭の中でファイルに仕分けしている。人を分類し、物事に意味をつけ、自分の位置を定める。

きっと、そんなことに始まるあらゆる自分の声が静まりかえり、自分自身から自由になった状態を「悟り」というのかもしれない。それはどれほどすっきりとした状態だろうか。人はその静けさの中にこそ至福を見出せる、という人もいる。そんなに静かな何もないところに何故至福があるのか、ピンとは来ない。けれどもし私たちが元々そんな存在なのだとすれば、ありのままであることを阻害していた、そのひっきりなしにしゃべっている頭の中の声が静まることで、元の状態に戻れるということなのかもしれない。

私たちはとかく人のことを言いたがる。正したがったり、教えたがったり、救いたがったり、自分の力を見せつけたがったり。少しでもいろんなことがわかってきた人にとって、この欲求を断ち切るのはどうも至難の業のようだ。心と体の合一を目指してヨガを何十年もやる。そして「あの流派はおかしい」「あなたのヨガはまがい物、ニセのヨガだ」などと言い出す。内と外の世界に平和を見出すべく何かを信仰する。そして「あなたの宗教よりも私のほうが真理だ」「私の宗教のほうが幸せになれる」「これこそが唯一の真実である」と言い出す。どうしても、どうしてもそう言いたくなるのだ!!!子供が目の前の皿に乗った、とっても美味しそうなお菓子を我慢できないのと同じように。そして世の中の「間違い」を指摘しだす。人の愚かさを、非力さを、無知さを嘆く。色んなことを学べば学ぶほど、他の人がバカに見えてくる。いろんなことができるようになればなるほど、他の人が無能に見えてくる。

言いたくなるのだ。そして、そういったことを言うことが、正しいことである、と思えるのだ。なぜなら、それで相手が変わるかもしれないのだから。それで相手が自分の「間違い」に気がつき、改心するかもしれないのだから。もっとよければ、感心し、感動し、自分を敬い、「あなたのおかげで人生が変わった」なんて言って、とってもいい気分にさせてくれるかもしれないのだから。相手が気がついていないであろうことを自分は気がついているのだから、教えてあげたほうがいいではないか。「それは間違っている、こうしたほうがいいよ」と。

けれどそこに私たちの求める豊かさはあるのだろうか?

先日のセミナーで一番最後に使ったビデオクリップがある。インドかどこかの施設のようなところで、歯がほとんど抜けたおじいさんが、これまたほとんど裸のような格好で、1歳くらいの赤ん坊を抱き、その赤ん坊をみてこれ以上無いくらいの満面の笑顔で笑っている映像だ。映像に色はなく、音もない。けれどそのおじいさんがその子を抱きながら、そこに無上の喜びを見ているのがわかる。おじいさんが笑い、その赤ん坊も笑い出す。おじいさんはさらに笑う。そのおじいさんがガンジーだと知っていれば、見方が変わるだろうか。知らなければただの歯の抜けたおじいさんである。けれどガンジーだからあの輝きがあるのではない、あの輝きこそが、ガンジーをガンジーたらしめたものなのだ。あの無条件の受け入れこそが。生命への歓喜こそが。

「愛してる」という言葉こそ、私たちがもっとも多く伝えるべき言葉である。

愛することこそ、私たちが行うことのできるあらゆることの中で、豊かさと喜びを生み出すものである。

どんな状況であっても、どんな世の中であっても、どんな自分であっても、どんな相手であっても、とにかくそれを深く味わうことこそ、生きるということである。