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泣く事のできる本がすごい売れ行きを見せている。泣く事のできる映画がヒットしている。思いっきり泣ければ泣けるほど、それがコピーとなって売れていく。悲しい涙、切ない涙、感動の暖かい涙、どんな涙でも、とにか泣くことができるものは売れる。誰かが書いた「鎖骨に涙がたまるほど泣きました」という感想文が最高の宣伝文句になったりする。

全てのモノが揃っている時代、必要なものはもちろん、不必要なものまでもが十分すぎるほど手に入る時代。インターネットの世界。メールでのコミュニケーション。全てが「キレイに」行える、いつでも「キレイに」いることができる時代の中で、私たちが失っている感覚、それは私たちが元々はいかに傷つきやすく、不安定で、寂しがり屋であり、本当はいつでも誰かを必要としている、という感覚だ。自分は愛されない人間なのではないか、十分ではないのではないか、誰しもそんな不安からスタートしている存在なのだということだ。

ファッションやメイク、誰かの振る舞いや話し方の真似、ビジネスでの成功、誰かが言った言葉の繰り返し、家や車といった「モノ」、簡単に手に入るようになったそういうもので、自分の「もろさ」を、本当に簡単にごまかし、覆い隠すことができるようになってしまった。犯罪が増えているのも関係があるように思える。そもそも私たちがいかに簡単に死ぬのか、ということの実感がないのだ。

だけど実際には、その自分の「もろさ」の中に、不安や自信のなさと交じり合って、「愛したい」「愛されたい」という本当の想いがある。本当の「ごめんなさい」があり、本当の「許してあげる」がある。本当の「大好き」がある。母や、父への言葉にならない湧き上がる想いがある。そこは、本当のつながりを生む場所なのだ。

自分が過去に受けた傷をいつまでもひきずっていることとは違う。いかに自分が「被害をうけた」「いつも損をしている」存在か、ということを他の誰かにわかってもらうべく、涙ながらに独白することとも違う。そんなことをしていたら、過去にどんどん足をとられ、重たく、重たくなって、何一つ今を楽しめない、もったいない人生になってしまうだろう。そんなことをお互いいい合って、「あなたも仲間なのね」と傷によってつながり合う関係は、本当に心を開いてつながりあう関係とは全く別のものだ。

みんな、泣きたがっている。何かを洗い流すことができると感じているかのように。まだ、何かによって「動く」ことのできる心があるのだと確認するかのように。本当は泣いてしまいたい。塞き止めている何かを解放してしまいたい。何事もなく平穏に過ぎていく日常の中にある漠然とした不安や不足感をさらけだしてしまいたい。本当は怖いんだと言う事ができたら。本当は寂しいんだと言ってしまうことができたら。本当は愛してるんだと言う事ができたら。どんなに肩から力が抜けて、楽になるだろう。

私たちはもろい。そしてすぐに傷つく。誰もがそこからスタートしている。きっとそれが、本当のつながりの中で、そして何かに気がついていく中で、強く、決して傷つかない心になっていくことができるんだろうと思う。だけどそれは、何かでごまかして覆い隠すこととは違う。

小学校時代の親友に会った。お互いに「この着ぐるみの中にいる本当のあなたの顔」を知っているような、小学校時代の友達。小学校のときなんてカッコをつけようという発想すらないから、恥ずかしいくらいに自分をそのままやっている。彼女と話していてふと気がつく。そうか、どんなに私はスゴイのよとか、こんなことができるのよとか、こんなことを成し遂げたのよとか、こんなにカッコいいのよとか、そんなことを一生懸命相手に伝えようとする必要なんてないんだと。それで相手は「スゴイな〜」と思うかもしれないけど、すごくカッコが悪くても、「好きだなあ」と思ってもらえるほうがずっとずっと嬉しいことなんだと。

私たちは元々そんなに「カッコいい」存在ではないのだから。 どんなことを表で言ったって、その奥にはもろく、不安で、弱く、傷つきやすい心を抱えているのだから。

そんな心を覆い隠すことなく、幼かった頃のように、その心ともう一度共に生きたとき、塞き止めた何かを解放するための、心の存在を確認するための、何かをもう一度「感じる」ことができるための泣ける本や映画は、もう必要なくなるだろう。